2014年9月24日水曜日

親_父編

父:
私が小学校に入った年は小学校が国民学校と名前が変わった年なの。昭和16年は学制改革があって小学校が国民学校となって児童は少国民として教育を受けることになった。その国民学校の一年生の二学期の終り、12月8日に当時大東亜戦争と呼ばれたアジア・太平洋戦争が始まった。気の小さい私は日本はどうなってしまうのだろうと心配したけど、大本営発表を聴くと、初戦から日本海軍の真珠湾攻撃が成功して日本有利だと子ども心にも思えたんだけれども、私はその頃、少国民を含めて国民に戦意高揚させるための戦争映画を相生座という映画館に観にいったんだよね。その時、最初にみた映画が「英国崩るるの道」っていう映画で、日本軍がシンガポールを陥落させたんだけど、その映画に出てくるイギリスの市民が父親に似ていて、日本軍の狙撃で路上で倒れるシーンがあって、父親の姿とオーバーラップしてしまって強いショックを受けてしまい戦争は嫌だと思った。

 当時の少国民は、大日本青少国民団っていったかな、子供も戦争に協力させる組織に組み込まれていた。毎日、 男の子は 兵士として戦うため、女の子は野戦病院の看護師として活躍するための訓練が行われたけれど、それが嫌でいやでしょうがなかった。真冬でも上半身裸で乾布摩擦をしてから町を走って一周する。男の子は木刀で、女の子は長刀(なぎなた)で戦うための力を培った。そういう日々が続いていた。その毎日が嫌で嫌でしょうがなかった。 

小学校の先生は「女の子は戦地の野戦病院で怪我をした兵隊さんのために頑張るのよ、男の子は戦地に行ってお国の為に戦わなくちゃならないのよ。お国の為に頑張るのよ。贅沢は敵なのよ」とね。特に国民学校3年生の時の女の担任のK先生からよく言われた。大本営発表を聴いて、日本は戦争に勝ち続けているんだなって思ったんだけど、先生も「日本は神の国だから負けそうになっても神風が吹く」って言い続けていた。その先生がある日「昨日新聞で読んだんだけれど、召集令状を受け取った青年が出征するのが嫌で庭で木の枝に首をかけて自分の命を絶った。そういう人になっては駄目。進んで戦わなければいけません。」と言った言葉を今でも覚えている。

 4、5年生になって空襲が始まった。田舎のこの小さい町でもロッキードの戦闘機で女の人がひとり狙撃されて命を失ったことからだんだんと日本は負けるのではないかと思うようになった。 

そういう時期に若い臨時のA先生が来た。5年生の時の担任が出張の時にそのA先生が代わりに授業をしてくれた。「アメリカは今、大統領が死にそうになっている。トルーマンという副大統領が大統領になるかもしれない。そのアメリカはイタリアとドイツを除くヨーロッパの国々と共産主義のソ連も入った連合軍として戦っているんだけれども、ソ連以外殆どの国が資本主義だ。国の仕組みが違うんでこれから連合軍は分裂する可能性がある。日本がこれから負けていくことになると、アメリカ軍が上陸するかもしれない。日本人は体力がない、お前達も小さいし先生も小さい。しかもアメリカ軍は優秀な新兵器も持っている。ひとたまりもなく竹槍などで戦ってもやっつけられてしまう。」と話した。戦争協力の末端組織の「隣組」 は今の町内会だけど、私が住んでいた稲荷町の「隣組」 では、アメリカが上陸した時に子供も協力させるために、竹槍の先端を油の中にジュっと入れて刃を強くして板に突き刺す訓練をやっていた。その訓練をやりながらその先生の話しを思い出していた。その先生はある日いなくなった。学校の先生には召集令状は来ないといわれていた。銃後の少国民を育てる役割があったからだけど、なぜかその先生のところには召集令状が送られて南方に派遣された。間もなく戦死したと知った。 

戦争末期の5年生の時、沖縄戦になった。沖縄の地図を描いて毎日沖縄のどこで戦っているのか、那覇は、首里はどうかと先生から聴きながら克明に地図の上に戦況を書く係になった。その作業をしながら日本はだめだなと子ども心に強く思った。

 そういう時、お隣のふくろ屋さんのおじさんが「ひろちゃん、もうじき日本は降伏するよ」と教えてくれた。それから、家のラジオの故障をいつも直してくれていた人がいたんだけど、そのそのおじさんが、短波受信機を使って短波放送を聴いて「確実に日本は負ける」って教えてくれた。8月15日の前に日本が確実に負けると教えてられ、怖くて怖くて夜も寝られない状態になっていた。

 短波放送で「日本は負ける」と知っていたおじさんは特攻警察と憲兵に連れられて牢獄に入れられてしまった。またショックを受けて怯えながらやがて夏休みにはいって空襲が激化するだけでなく広島に「特殊爆弾」が落とされてソ連が日本に攻め込んでくるという情報をラジオや新聞で知った。確実に日本は負けると思った。2発目の「特殊爆弾」が長崎に落ちてますますその思いが強くなった。 

8月14日から15日にかけて、熊谷大空襲があった。家の裏庭の防空壕に入っていたけど、爆弾の炸裂が激しくなって、大地が揺れて防空壕が崩れてきた。父だけは家に残ることになり、私と母とおばあさんと弟と妹と一緒に小川町の南の青山の農家の竹やぶに行った。布団にくるまって一晩明かした。

 明けて、8月15日になって天皇のへんな声の玉音放送があった。日本は戦争に負けたということが子ども心にわかった。いつも行く馬橋の下の水浴びをするところに行こうと思って歩いていくと、その途中の家のおじさんおばさん達がオイオイ泣いていたり、怒鳴っていたり、黙っていたり、普段とまったく様子が違った。なんで泣いたりするんだろう。

 率直に戦争が終わって良かったと思った。竹槍で戦う必要もない、空襲もない、負けた国になるけど竹槍で米兵と戦うこともなくなるし、火炎放射器で殺されることもない、ああよかった!と思った。 2、3日後、学校から全員登校しなさいと連絡が入った。全生徒を校庭に集めて森村校長が「みなさん、8月15日に日本はアメリカと仲良くなりました。日本は戦争に負けたのではありません。アメリカと仲良くすることになったのです。」と言った。 

2学期が始まったらそれまで使っていた5年生の教科書のいくつもの文章を墨汁で消す作業をした。1〜2週間続いた。「このページは糊で貼付けて見えないようにしなさい」という指示もあった。一冊の教科書のいろんなところが読めなくなった。 

「日本は神の国、負けそうになったら神風が吹く。女の子は野戦病院に、男の子は予科練に入ってお国に命を捧げるように」と言っていた女のK先生は詫びることもなかった。「あれは嘘だった」とも言わなかった、突然民主主義を語り始め、ひとりひとりが大切だと言い始めた。

 自分より歳が上で、アメリカと戦わなければならないと言っていた人、そして先生達、これらの人の話しを絶対に信じるまいと思った。すべてを疑おうと思った。特に学校の先生は大嘘つきだ。それまで毎日掲げていた日の丸は進駐軍の命令で掲げられなくなった。学校も含めて、どこでも日の丸を掲げることはできなくなった。先生達は命令通りにした。そしてやがて組合をつくり赤旗を振り、インターナショナルの歌を歌うようになった。そういう先生達がサンフランシスコ平和条約を結んだら急に赤旗を振るのを止めて組合から抜け出した。以後、そういうことに関しても先生に不信感をもつことになった。

 とにかく、敗戦を通して私は大人達を信じることができなくなった。復員した隣のおじさんが「日本は負けたけど、また戦争をしなければだめだ」と言っているのを聞いた。そのおじさんも信じられなくなった。

 6年生になって、進駐軍の兵士が小川町に来た。町の子にチューインガムとチョコレートをくれながら優しくしてくれた。鬼畜米英といってたけど米兵は優しいんだな、殺されることはないなと分かった。戦時中は禁止されていた野球が流行り始めていた。

 学制改革があって、どの町村でもだれでも行ける中学校ができることになった。県立松山中学に行くために受験勉強をしていたけれど、しなくてもよいことになりその分野球に夢中になっていった。 そういう時に進駐軍の兵士がグランドに来て野球の基礎を丁寧に教えてくれた。英語だからわからなかったけど、ボディーランゲージで教えてくれた。余計に野球が好きになった。大きくなってアメリカに行って野球をしたいと思った。 

プロ野球も復活した。川上哲治(当時は巨人軍の1塁手)が小川町にきて野球の話しをしてくれてますます好きになった。戦中、むりやり軍国少年にされた男の子達は野球少年になってアメリカに行ってみたいと思うようになった。 

とにかく自分より年上の大人達、戦争に反対しなかった父親を含めて、上の世代を恨んだ。戦争を境に生き方が変った。 

新制中学が出来た時「新しい憲法のはなし」という本が出た。「日本は新しい憲法ができました。国民が主人公になります。いろんな国の平和を愛する人たちを信じ、日本は戦争を放棄する」と学んだ。小銃などの兵器が大きな釜に入れられて廃棄される挿絵がとても印象に残っている。主権者は国民で戦争をしないことを学んだ。いい国になったと思った。国民一人一人に基本的人権があるという憲法の話しを、もと海軍の水兵だったT先生が教えてくれた。二度と戦争はすまいと語ってくれた。1年生が終わったらその先生はいなくなった。先生のお兄さんがポプラ社の社長で、そこにに努めることになったときいた。

 その先生_平和憲法を教えてくれたT先生は音楽や絵や演劇が好きで、学芸会でシェイクスピアの「ベニスの商人」をやることになった。私はシャイロックをやれといわれた。セリフの数が多いけど、全部暗記した。小川会館で演じて喝采を浴びた。ポーシャ役の女の子は後に山本安英(やまもとやすえ)の主宰する劇団の女優になったよ。いろいろな生徒にそういう影響を与えた。 

平和を愛し、いい授業をしてくれた反省しているT先生と、戦争に行って死んでしまったA先生は信じることができた。 

新制の高等学校でも野球ばかりやっていた。その頃、朝鮮戦争が始まった。世の中、また変ると思ったけど、担任のB先生と出会えた。ホームルームの時間にいろんなことをやった。ホームルームニュースを出してくれた。そして公害反対闘争の田中正造を知った。そういうことを含めて多くを教わった。運動会では「ノーモアヒロシマ」という仮装行列をした。運動会の為に先生が「2年3組頑張れ」という曲を作曲してくれて他の組から羨ましがられた。ドイツリート(ドイツ歌曲)も教えてくれた。 

上の世代を憎んだけれども、本当のことを教えてくれて戦死したA先生、平和憲法を教えてくれたもと海軍水兵だった新制中学のT先生、元陸軍の兵士だった松山高等学校のB先生、その三人は信じられる先生だと思った。「お国の為に死ぬのだ」と言った小学校のK先生は今でも恨んでいる。 

不条理なことに加担して生きるととんでもないことになる。どんな中でも条理に沿った生き方をしていると後で悔いを残さない。

 1945年の8月15日以前と以降、変ったんだよ私は。私の一年年下になると、ずいぶんと意識は違うらしいよ。 上の世代を恨むことはなかったって。 (2014年9月22日)

http://toyotoyoko.blogspot.jp/2014/09/blog-post_24.html

親_母編

母: ええとね。お父さんが死んだ日、昭和17年というのは1942年、4月18日、朝。お父さんが死んだのね。その晩、初めて東京に空襲があったの。その半年前に真珠湾攻撃があって太平洋戦争がはじまったのだけれど、半年も経つとアメリカの空襲があったの。

 1942年の4月18日夜、お通夜になるわけよね、で、二階にいて不安で不安で。警戒警報があったの。だからよく覚えているの。お兄さん二人と私、てっちゃんはいなかったね、子ども達は二階で、何しろ真っ暗なの。空をみながら。サーチライト、そのころは探照燈といってね、あっちこっちから夜空を右から左、左から右に空を巡ってたの。夜、二階にいて下からコソコソコソコソ音が聞こえたの。弔問客がくるのよ。そして暗い中から「帝都に空襲がありましたね」って聞こえるの。お父さんは結核だったのね。子どもながらにこれから家はどうなるんだろうと心配だったの。お兄さんは旧制中学の2年生、タモツ兄さんは小学校五年生、あたしは1年生。で、うちはその時にその他に病人がいたの。一番上のお兄さんが病人だったの。その人も末期を迎えていたの。次の年の二月に亡くなったの。要するに我が家は結核で死ぬ人が多かったの。ちっとも国のお役にはたたない家だったの。丈夫な子はいなくって。

 家中の金物を出すという国のほら、指輪だとか金属のものは全部だすことになったの。うちは母屋から離れにいく廊下には鉄格子みたいないっぱい金属の柵があったの。二階も。全部そういうのが無くなったの。真鍮の火鉢も。何しろ金けのものがなくなったの。

 お父さんも亡くなりお兄さんも亡くなると、お母さんのお姉さんーおばさんが、私達を信州に旅行に連れてってくれたの。お父さんとお兄さんの分骨した遺骨を善光寺に届けに行ったの。それから信州、志賀高原から渋温泉とひと夏かけて回って来たの、それはおばさんの優しさだったのね。おばさんの甥、姪、てっちゃん(弟)、私を連れて信州を旅行したの。で、帰ってお母さんの気分が落ち着いた頃、東京から疎開の人たちが来たのよ。いろんな人達がうちの蔵に荷物を入れさせてくれって来たの。家の離れに疎開の人が来たの。糧秣廠 ( りょうまつしょう ) 陸軍大尉の一家が来たの。それで、私はそこの家のあきらちゃんとよく遊んであげたの。五歳くらいだったかな。東京の子だからね。かわいいんだよ。その子とてっちゃんを相手に学校ごっこしてたの。きれいな奥さんでね。奥さんはあたし達が遊んでいるのを見ながらいつも笑っていたの。そういう小学校の日々だったのだけど、食べ物はなくなるってことで配給になっていたから、家の庭で配給のものをならべて近所の人が集まるの。門を大きくあけてね。みんなで分けっこするの。サツマイモであったり。サツマイモばっかり記憶にあるけどなんでも分けっこしたの。そうしたらその疎開にきた奥さんがみんなに羊羹を切ってくれるのよ、もう羊羹というのはこの何年か見たことがない。それが楽しみで近所の人がみんな参加した。薄く薄く切った羊羹で…。 

だんだん空襲も増えてきたの。防空壕掘っていろんなものを入れた。従兄弟たちもみんな戦場にかり出されていったの。で、学校は疎開の子が多くなって。お弁当は持っていってたけど、中にはお弁当をもって来ない子もいてね。そういう子は家に帰ったふりして窓の下にいるの。あちこちに親戚を預かる家が周りに増えてきているから、その子たちのお弁当をつくるのも大変なわけよ。そのうちに、私が4年生になった時だ、ピカドンが落ちたんだよ。まず広島に。そうじゃない、その前にお隣のうちの息子が軍隊から脱走したの。脱走して、憲兵がお隣と私の母さんのところに貼り付いて情報を聞き出そうとするのよね。家から出るとその憲兵がお隣に入っていくのを見たの。私気になって、その前を通り過ぎて、ちょっと戸があいていたからのぞいてみたの。そしたら憲兵がこっちを見て戸をびしっと閉めたのね。憲兵っておっかない、お隣のお兄さんは逃げたんだなって思ったよ。 すごく心配だった。でも戦後、お隣のお兄さんは生きていることがわかったの。それはね、そのお兄さんが結婚をするらしくて興信所がいろいろ私の家に聴きにきたから。良かったなと思った。 

私のお兄さんは大学生になって工学部に入って毎日都内の強制疎開した家の後片付けに行っていたの。兵隊にとられなかったの。タモツ兄さんは旧制中学で中島飛行場に学徒動員されてたの。一年生でだよまったく。14、15歳。お姉さんは結婚しないでいた。 お姉さんは徴用にとられたら大変っていってね、 お母さんの考えで農事試験場に勤めたの。私、そのお姉さんがえらいなって思ったのは、お母さんの片腕になるわけよ。お母さんは外に出て食料の調達してお姉さんは熟した柿からお酢を作ってくれたの。それと、工夫して鋳掛け屋に設計図を持って行って天火を作ってもらったの。それでいろんなものを焼いてくれたの。食べられない粉なんかをどうにかして。で、お姉さんも年頃だったんだけど、お母さんがどういう考えだったんだかなあ、この戦争はダメって思ったんだかなんだかしらないけど、縁談があってもみんな断っちゃうの。来る写真来る写真、みんな軍属の格好してるの。そういうお見合い写真が来るのよ、逆に、よその親は早く結婚させだがる。男がいなくなるからって。お母さんは夫を亡くして自分が惨めな思いをしたから。なにしろ未亡人にしたくなかったんだね。兵隊に行けない人はみんな弱い人だったんだよ。そういう人だっていずれ死なれるからね。だからそれ以外の男の人は身体が弱かったのよ。それだっていずれ兵隊にとられたけどね。それとね。クラスはぎゅうぎゅう詰め。疎開してきた子で、その中でおもしろい子がいた。「青木さん(私)の家って沢山本があるけど「愛染かつら」ってある?」って。うちには「愛染かつら」っていう本は無いって言った。奇麗な子だった。私の唯一の楽しみはね、二階にあった押し入れの中にまた押し入れがあって、夜具戸棚を厳重に閉めてレコードを聴くこと、兄弟の中で私まで許されていたの。内緒で。それはお兄さんのお陰なのね。それはね、従兄弟達がおいていったレコードだったの。みんなこれはよそに言ってはいけないよって言われたの。それを聴けるのはお姉さんとふたりのお兄さんと私だけ。真っ暗な中で蓄音機を回して聴くのよ。ジャズもあったよ。いとこは慶応だからね。ははは。可笑しかったよ。クラシックもあったし。ああ。それで、その頃お兄さんのお友達で芸大に行ってた人がいたの。その人の話しだと、覚えているのはね、学徒動員でとられる時、芸大ではベートベンの「英雄」を演奏して聴かせてくれたんだって。あたしすごく記憶にのこっている。 

お腹は空くやら栄養失調になるやらで私はおできだらけになっちゃったの。男の子は頭の中にもおできができて。私は脚とか腿とか。お腹にはできなかった。いつも包帯だらけ。栄養失調で。それでね。広島に新型爆弾が落ちたっていう話しがあったんだよ。新型爆弾を防ぐには白(黒?)い服を着てれば助かるって聞いた。すごい閃光で。 

敗戦間際の頃には、着の身着のままで寝てたの。戸も開けっ放しで寝てたの。二階だからね。ある日ぱーって明るくなったのよ、焼夷弾がどこかに落ちたのかもしれないけど、そのとき、これが新型爆弾かと思った。なんで神風が広島に吹かなかったのかっていうことが不思議だったの。間もなくして8月14日の夜、熊谷空襲があって本当に大変だった。それから3月の東京大空襲の時はうちからも東京のそらが真っ赤に見えた。 あとひとつ、B29からアメリカ兵が落下傘で遠くに降りたのを見た。かわいそうだなって思った。日本人は殺すだろうなって思った。お母さんに「戦争は負けるね」っていったらお母さんに陰につれていかれて「言うんじゃないよ。そういうことを言うと大変なことになるよ」って言われた。物はない何はないだから、子供でも不思議だよね。8月13日の夜から次の14日の朝まで、熊谷空襲があったの。一晩中、防火用水の所に立って熊谷の方を見ていた。二人の兄は大屋根に上がって火の粉を振り払っていたの。

 8月15日、玉音放送があるからラジオの前に集まるようにっていう触れが回ったのよ。みんななんだろうって思って。もう寝てないんだから一晩中。ラジオの前に丁度お昼になったら玉音放送というのが始まって。初めて天皇陛下の声を聴いたの。これが神様の声かなって思ってびっくりしたよね。で、意味が分かんないの私には。ただ周りの大人が泣くから負けたんだなあっていうのが分かったんだよね。で、外に出たらすっごくね空が真っ青でね。気持ちもね。頭の上にいつも何か乗っかってたの。それがぱーっととれたの。不思議だったね。嬉しくってね。みんなはなんで泣くんだろうっと思ったの。ああよかったーって。やっぱり神風は吹かなかったんだと思ったよ。それは小学校4年生だもんね。で、二、三日後かな、私はスタスタスタスタ小学校へ行ったのよ。小学校には奉安殿があって、奉安殿には教育勅語とそれから天皇・皇后陛下の写真がしまってあったの。で、なにか式があると、校長先生が白い手袋をして教育勅語をもって、寒くっても講堂にみんな並んでそれをきくのね。で、ちょっとでも動くと先生が飛んできてビンタくれるのl男の子にビンタくれるの。もう恐ろしくて恐ろしくて。

 女の子も? 

女の子には怒るくらい。女の子がビンタもらったってのは聞かなかったね。お母さんがもらわなかっただけかな。で、その奉安殿に行って、ちょっと木陰があるのよね。そこでみんながもう遊んでいるのよ。今までは朝、奉安殿の前で礼をして、それで教室に向かってたの。帰る時も礼をして家に帰ってたの。その奉安殿で、その日はみんなが遊んでたの。後ろに木陰があるからそこでみんなが遊んでいるのよね。ちょっとそこにいて、それから自分の教室に行ったの。夏休みだったけどね。そしたら宮崎先生っていう私の大好きな女の先生がいたの。ちょっとおしゃれでね。私のことを解ってくれてうちの事情も解ってくれて。その先生がいたの。私、なんて言ったか分からないんだけど、先生からチョークをもらったの。ほんとうに何書いたか分からないんだけどいつの間にか黒板が真っ白になっちゃったの。で、また先生のところにいって、で、先生がまたチョークをくれたの。貴重なチョークだったと思うよ。それでみんなの机の上に、本当に何書いたか記憶にないんだけれど、机をチョークで真っ白にしたの。夢中にかいてたのね。そうしたら、何時間位たったんかな、後ろの扉がガラッと開いたのよね。そしたら数少ない学校に残っている若い男の先生が、頭ぐりぐり坊主の、野村先生っていうんだけど、立ってたの。私は殴られるなって瞬間思ったの。で、宮崎先生もヒュッて立ったの。私もびっくりしてそっち向いてたのね。長い時間のような気がしたけど、野村先生は静かに戸をしめて出て行ったの。それからよく覚えてないけど。宮崎先生と二人で消したんだと思う。ぞうきんで。それからまた黙ってスタスタスタスタ歩いて家に帰ってきたの。そしたらお母さんとお姉さんがぼんやりとね、あの10畳の広い部屋でさ、ふたりがぼんやりと膝の上に毛糸のカセをのっけているのね、毛糸の一巻きを昔は100g200g50gっていうのではなく、ひとかせ何オンスとかいって、でもそれカーキ色なの、軍隊色なの。ただ貴重な純毛なの。それをふたりが膝のうえにのせてぼんやりしてたの。そしたらお母さんがね、「あのね、あきらちゃんは自動車で帰ったってよ」って教えてくれたの。びっくりしたんだけど。近所の人から後できいたけど、あきらちゃん達は軍用トラックで出て行ったって話してくれたの。なんだろうと思って近所の人がのぞいたんだろうね。あの門のところまで軍用トラックが入ってきたのかな?そしたらね、お砂糖やら粉やらね。なにやら食料品良品がいっぱい入ってたんだって。あきらちゃんとその妹のよしこちゃん、奥さんと陸軍大尉が、その沢山の食料品を積み込んだ自動車に一緒に乗って帰ったんだって。若い兵隊さんが運転してきて、荷物を詰め込んで帰ったんだって。もう寂しいとかじゃなくってねえ。後で知ったけど、川崎で製菓工場を作ったんだって。 

それからの生活も大変だった。ますます食べ物がなくなった。母が食糧難に備えて、どんぐりの粉をいっぱい買ってたの。で、そのドングリの粉はどうしてたべるのかっていうと、アクをとるのよね、お水につけてで、アクをとって下に沈殿したのをすくってお団子にして食べたの。まあそういうものがあったけれど、あんまりおいしくないのよね、お砂糖があるわけでもないしお塩もないし。まあみんな栄養失調。でもね、民主主義って本当の民主主義ってね。2、3年だと思う。お母さん。小学校は楽しかったの。先生がいろんなことをやらせてくれたの。先生の前に向いて座るっていう方式ではなくてグループ学習だったの。あ、その前にね、先生がね、教科書を持って来いって言うのよ。それで、教科書に間違っていた部分があるから消すからっていうんで、こう、墨塗りを始めるの。でもお母さんはそれ、やらなかった。全部塗ったの。そしたらお母さんの一冊の本はうんと厚くなって開かなくなっちゃったの。でもね、それを学校で使ったっていう記憶はないよ。もうほんとにね、毎日自由な研究発表。このグループで決めたことを、男の子も女の子も一緒になって自由に決めたことを町へ行っていろんな話しをきいてきて持ってかえってそこで話し合いをして代表が前に出て発表するっている方式になった。それから話し合いの議長は選挙で決めたの。 

小学校5年生くらいに演劇が流行ったの。歌をうたう人もいたし、各クラスで演劇大会をしたの。私は家にある本の中から小山内薫の「北風のくれたテーブルかけ」っていうのを選んだの。私が演出したの。この脚本を選んだのは自分でもセンスがいいなって思ったの。で、宿屋の亭主の役の人が、だいぶ長いセリフが通しででてくるから嫌だっていうの。 その人は男の役が第一に嫌だったんだろうね。 仕方がないから後半を私がやったの。宿屋の亭主を。後半から役が代わったから、見てる人が分かんなくなったんじゃないかなって、残念だなって。今でも思うの。どうして頑張んなかったのかなって。でね、演出も凝ったの。先生の教卓に炎を描いて暖炉にして工夫をしたの。ただその日嬉しかったことがあったの。私のはいているズボンの膝が痛んでいたのだけど、その朝、お母さんが新しいズボンを縫って枕元に置いてくれてたの。それが嬉しかった。 

でもね、そういうのってね。2年くらい。後ははまた右傾化していったと思う。中学のときはもう朝鮮戦争が始まったからね。で、日本はもうその頃からまたね、馬鹿な道を歩いていたんだと思う。反省ってのがないんだから。悪い人がいっぱいいたんだよね。で、その頃でしょ、あの配給のものだけで生きるっていうんで死んだ検事さんがいたよね。飢え死にしちゃったよね。でもヤミのものを食べないとね。行きて行けなかったの。何しろ家の庭にあった松の木の傍まで、お母さんがスイカ植えたりトマト植えたりぜーんぶ畑にしちゃったの。でもみんな病気がちだったね。弱い家だからね。そういうこと。うん。やだね。 

お父さんは遺言状を書いたのよ。その遺言状っていうのは自分のお葬式の段取りと案内状まで書いちゃったんだから。葬式の日付だけは無いの。それで非常時に併せての葬式のやり方と、それから私達子どものことをお母さんに頼んだわけ。どの子も平等に学問をさせるようにっていうこと。そういうことだね。それから株なんてやってはいけないとか。それはお父さんが銀行家だったから沢山みてるわけよ。株やってダメになっていく人たちを。ね。でもお父さんは大政翼賛会の会員なのよ。戦争賛成のクチなのよ。そうしないとやっていけないんだからね。自分が死んでも充分この子達の一生は賄えるという計算のもとなんだよね。残されたお母さんは大変じゃない。農地解放があって全部とられちゃったんだから。 

私のお母さんは、食べていけないので自分の家を寮にしたの。門を入って左側のうち。あれを農地試験場の寮にしたの。で、うちにねえやがいたろ?お母さんとねえやでまかないをしたの。

 姉や(ねえや)っていうのは何なの?雇用してたわけでしょ?

 そうよ。

 お金がないのになんで雇用できたの?

 だからお父さんさんのお金はあるよ。その頃は。 

でも人を使うってお金がかかるでしょう? 

それはみんな小作人の娘なの。で、うちからお嫁に行ったの。で、お母さんが一番ね、心配したのはその子とお姉さんが結核になったらどうしよう、感染したらどうしよう、特によその子に感染させたらどうしようっていうことだったの。でもね女の人はならなかったんだよね。

 強いのかね。 

強いし、傍にも寄せなかった。で、私が小さいときにはね。白い服を着た人が家中にいっぱいちょろちょろしてたの。それは看護婦さんだったの。そんで、庭の隅に大きい釜が置いてあっていつもそこで火を燃して煮沸消毒してたの。真ん中のお兄さんは私が4歳の時に結核で死んじゃったの。その人がもうひとつの家に住んでいたんだけど時々療養所に入れたりするわけよ。あと親戚がお医者さんだからね。お母さんはお父さんが亡くなったあとね、お兄さんも亡くなって学校に行っても子どものくせに不眠症になったり、教室の壁や天井のシミをみても凄く怖いものに見て勉強どころではなかったの。おっかなくって。おとうさんは大丈夫かな、お閻魔さまの前でちゃんと通れたかな、そんなつまんないことから始まって、あたしはいつそういうふうになるんかなあっていうんで病気になちゃったのよね。で、夜中に走るようになっちゃったの。 どういうことをするかっていうとね。 ムクッと起きると台所に行くんだって。台所は家の真ん中にある。で、そこの水杓がある。それをもってあの廊下をね。コの字曲がったりして一番表に出ていってシャーって撒くんだって。またトットットットッッって戻って行くの。なんかワアワアワアいいながらお勝手にいってまた表まで出て行ってシャーッって水を撒く。それを何回か繰り返すと布団にはいってコロって寝ちゃうんだって。 で、全然覚えがない、私は何ひとつもやったって今も覚えてないけど。お兄さん達に冷やかされたの。 従兄弟がお医者さんだったのね。お母さんが心配してきいたの。従兄弟っていってもお父さんが末っ子だったからうんと上なのよ。私はおじさんかと思ってたけど。その従兄弟が分院をもってたの。曜日が決まっててそっちに行くから帰りに寄りますよって。あたしが起きる時に見計らって家に来てくれたの。そしたら、私の様子をみて、大丈夫ですよって。この子は神経質で頭のいい子かもしれないって。そこは外れたんだけどさ。そういう恐怖だよね。そうしたらお母さんがその日からお父さんの前で般若心経をあげようって、お父さんが見守ってくれるからって。お母さんと一緒に般若心経をあげようって言うんでね。小学校1、2年生でね。毎晩お経をあげたの。そしたら治まったの。心が落ち着くんだね。お父さんが見守ってくれるっていう。だって優しいお父さんだったよ。康子に言ったでしょ、寝る時、足が冷たいとお父さんが来て足を握っててくれるのよ。お父さんは「かわくて、にくくて、ほねくて」っていいながら足を握っててくれたの。でも私が泣くとお父さんの神経が苛立ってね。寝間着のまま飛び起きてきて庭で振り回してね。その先、蔵にいれるの。でもあたしはね、懲りなかったの。そんなの。うわーって言いだしたら、南彦(孫)じゃないけど、凄かったの。

 でも、いろんな事情をお母さんが私に話せばいいのよ。たとえば、一番上のお兄さんが病院に入っているっていうことを。お母さんが病院に会いに行くわけよ。お父さんは行けないから。お母さんが着物を着替えだすわけよ。出かける為に。いい匂いがしてきてね。ああお母さんでかけるんだなって思うとそこにまつわりついて。あたいも行く、あたいも行くって言い出すの。

 「うるさかったんだね。」

 そうするとねえやの千代がね、騙すわけよ。お母さんが出かける時に。だからもうね。そういうことをされまいとしてずっと貼りついてんの。私も一緒に行く行くって。だからね。私はそんなにばかじゃないと思うんだよ。お母さんは実は昇兄さんが病院にいるんでこうだよっていうことをね。話してきかせればいいのに、しなかったんだよね。そうするとね、帰りね。まだその頃アイスクリームを売っているっていうのは珍しいんだけど熊谷の駅だからアイスクリームがあったの。このくらいの四角で。経木にはいっているの。お母さんが、私やてっちゃんに食べさせたくてそのアイスクリームを買ってくるのよ。そうすると、アイスクリームの周りの何個かを犠牲にするわけ、アイスクリームの上と下を。真ん中だけを食べさせたいんだね。お母さんが帰ってくる頃はお母さんが行ったのも忘れて私たちはあちこちで走り回っているのだけど、ねえやが「ほらひさこちゃん、てっちゃん、たもつちゃん」ってみんな呼んで・お母さんが出してくれるアイスクリームを食べるの。それが楽しみだった。だから帰りアイスクリーム買ってくるから待ってなって言えばいいのに。なんで言わなかったんかなーっって思って。 

「そうだね。でも判んないだろうっておもわれてたんだね。」 

うん。このグズな娘は言ったら聞かないんじゃないかなって、うちの旦那には言ったっていうけど。私、そうでもないと思うよ。話せば、うん、分かったっていうと思うよ。そういう癖をつけなかったんね。ダメな子はダメって思ってたんじゃない。

 お母さん辛かったと思うよ。結婚生活は短かったと思うよ。息子達が次から次へ亡くなって。で、やっと大きくして大学入ったら結核になって。だからね、あの、銀行っていうのはね結核の巣なんだよ。昔はね。風通しが悪くてさ。今みたいにお金なんて見ないでインターネットでお金の勘定なんてできないじゃない。その、大きいお金なんか。だからお母さん子供達をひとりも銀行員にしなかった。なるんじゃないよあんなもんって。お母さんが可哀想だったね。でもね、お母さんだけじゃなくてうちの親戚みんな結核だらけ。軟弱なんだね。でも、あの、ほらお父さんがいるときは楽しかったよ。お父さんに東京連れてってもらっておいしいものを食べさせてもらって。いいもの買ってもらって。それとね、横浜に親戚があったからそこからねお父さんが注文してくれるの。お洋服。特にお姉さんに。お姉さんが可愛くって。あたしと違って可愛い顔してたのよ。丸顔で。かわいくってね。お父さんの自慢だったの。で、熊谷の女学校をでてから山脇女学園を終えてフランス料理を習いに行ってたの。だからお姉さんは天火なんか知ってるの。それをお父さんが楽しみにしてたの。お姉さんのつくるお料理を。普通その頃ハンバーグなんて知らないじゃない。横浜からお洋服がくるとね。お父さんのネクタイやらお姉さんのお洋服が届くのよ。それから呉服屋さんが家に来るの。お姉さんやお母さんの着物を買うのに。お父さんはセンスがいいの。お父さんは病気で離れで寝ているの。そうすると呉服屋さんが大きい向こう側の中庭を間において、うつらないようにして遠くのほうにいて、反物をどんどん広げるわけよ。そうするとお母さんが廊下に出てきて、お父さんに反物をこう広げてみせるの。「それだめだ」。で、また次をみせるの。愛子(姉)の着物…、絞りの…、で、そういうふうに買うの。で、呉服屋さんはまた紺色の風呂敷を背負って帰って行くの。番頭が来るのよね。そういうふうにして昔はね、行って買うんじゃなくて来てもらって買う。特にお父さんがそうなってからはそうなったの。あたしも欲しいあたしも欲しいって言ったら、買ったよ買ったよって言われて。で、ちっとも買ってないのよ。要するに、これ買ったこれ買ったってのは、羽織の裏とかそんなもんなんだよ。可笑しいね。いろんなことがあってね。にぎやかな家でした。活気があったんだけどね。でも、お父さんが病気になっちゃって。お兄さん達が亡くなって。お父さんの頼みの息子達も病気になって。だからお父さんのね。計算は狂ったんだよ。おそらく真珠湾攻撃の時には万歳って言ってたのかもしれないけど。

 あと、紀元2600年っていうお祭りがあったのを覚えている。あれ何年だろう。そんでその時はお父さんに肩車してもらって。提灯をもって首に赤い手ぬぐいをまいて、町を行進したの。お父さん元気だったんだなあ。 

あの頃は電車に乗る人ってあんまりいないのよ。通勤するサラリーマンっていないんだから。ほとんど商店主とか。サラリーマンってのは数少ないんだから。お姉さんが女学校に行っている時、電車で降りて家に向かっている時、駅に行く男の人がすっすっすっすっといると、ああ、これはうちの系統の顔だなって分かるんだって。みんな面長でさ。ああ、この人うちに来たなって。急いで家にかえるとね、お客様の居た気配があってさ。まだ、いいおざぶとんがあって。今のはなんとかさんだよって。お父さんの話しを聞くと面白いよ。自分の姪にさ、姉さんの子ども達にどうしても修道院はいるっていうのが出て大変だったんだって。(2014年9月22日)

 http://toyotoyoko.blogspot.jp/2014/09/blog-post_51.html


2014年3月12日水曜日

2013年5月8日水曜日

2013年1月18日金曜日

蒼国来関の土俵復帰裁判の傍聴記録から




1)和解協議中だから、傍聴した内容をいろいろツイートするのは余計かなと思ったが、「裁判が非公開でなく一般公開されている以上傍聴者から進行内容が口外されることやそれについてブログやTwitterで論議されることはよくあることだし、個人の言論は自由だよ」と裁判に詳しい友人が言ってくれた。


2)蒼国来の裁判。恵那司や深沢氏の証言内容について、報道が少ない為、根拠になった取組について証拠も証言も出なかったという要点が掴めてないひとたちもいる。「推定の有罪」のような視点を残してはいけない。傍聴した一般人のひとりとして、できるだけ証言内容を発信する必要があると感じる。


3)本日から、大阪の非営利のアートスペース「キャズ」で今日でから始まる Pilot plant/Japanese identity 会場に→
http://cas.or.jp/2013/ji/index.html
蒼国来土俵復帰を応援する署名用紙を置かせていただいた。3月からの大阪場所の番付表には蒼国来の四股名が載りますように

以下、呼びかけ文章です。

4)2011年4月、蒼国来関は「大相撲八百長問題」で春日錦の「供述」のみを根拠に物証の提示も調査もないまま一方的に引退勧告を受けました。一昨年7月からの公判は2012年12月20日にようやく結審を迎えました。東京地裁からは判決日(3月25日)の決定と同時に「和解勧告」を受けました。


5)この展覧会の会期中の1月22日に2度目の和解協議があります。
私は当初からこの唐突な処分に違和感を覚え裁判をすべて傍聴してきました。被告(協会側)からの物証は提示されるどころか調査することも無かったことが判りました。

6)また今回の唯一の「供述者(春日錦)」は出廷を拒み最後まで証言台に現れませんでした。しかも「供述調書」にサインすることも拒んでいたことが確認できました。

7)元・恵那司の証言はこちらに→ http://d.hatena.ne.jp/team_engke/20120326/1332768081
『まず「春日錦との無気力相撲」については「記憶が定かでない」と曖昧な証言をしました。そしてもう一つ。「金銭のやりとりがあったか否か」については、「いや、それはありません。」ときっぱり否定したのです。』

8)春日錦が出廷しない替わりに証言台に立った調査委員は、「転び方が受けにいっていると私が思って判断した。」と主尋問でも反対尋問でも述べました。この「転び方」に関しては、蒼国来に上手出し投げを打たれた春日錦が受け身をとった動きがこのように解釈されたと思われますが、→

9)投げをうたれた場合、「受け身」の型をとらない限り格闘技は大怪我をすることになります。相撲/格闘技において専門ではなく、適切な知識が無い外部の調査委の判断が「八百長認定」に直に大きな影響を与えていたことが浮き彫りになりました。

10)(裁判当日この証言箇所は何故か報道されずに「調査の妥当性を主張した。」という表現に一括されてました。)

11)昨年7月19日の蒼国来関の本人口頭弁論の要点はライターの青山さんのブログにアップされてます。→
http://aoyamagumi.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/_-31ed.html


12)裁判では被告側代理人が「二人以上の供述で取組が特定できたもの」が認定の基準になっているとあらためて確認していたが、蒼国来の件は違うではないか。一体何が基準だったのか。調査委の主観によるのか。裁判前に調査委が「証拠はある」と発言していたが、結局それは示されなかった。

13)このように、「供述」内容の真偽に関しても、根拠となった取組の解釈も、立証できる内容が一切無い「認定」作業が外部の調査委によって行われていた事が明らかになっています。

14)裁判では力士の労働者性も争点のひとつでした。保険制度も整い、日常生活の隅々まで拘束の多い「力士」が個人事業者であるはずも委託業務であるはずもなく、法治国家における組織で雇用される側の「労働者」であることは自明です。

15)中世における狂気の魔女狩りのごとく、一方的に名指しされ職場を追放されるまでに至った今回のような事態が今後繰り返されないためにも、

16)また世界で唯一相撲のプロフェッショナル組織である日本の「大相撲」界に憧れて来日し、日本語を習得し異文化を受け入れ、文化の継承者として活躍してくれる海外からの若者に対してこのような非人道的な対応が繰り返されないためにも、

17)相撲協会が「蒼国来の土俵復帰」の決断が出来る様、声を届けようと思います。幕内力士蒼国来関の土俵復帰を世論は後押ししていることの証として署名運動にご協力お願い申し上げます。ウェブ署名→
http://cb-s.info/syomei-top


18)これまでに日本や海外の相撲ファンからも沢山の署名がよせられています。2011年の夏場所以降、同年の名古屋場所、以降昨年の秋場所までの全東京場所に両国国技館前で有志による街頭署名運動が続けられました。2011年の4月以降にツイッターで知り合った有志達です。みな生まれて初めての街頭署名活動を経験しました。


19)蒼国来関が解雇されるまでの記録をその有志のひとりであるたーねこさんがこちらに→ http://togetter.com/li/422972

20)その有志のひとりであるアイマリさん→
「蒼国来の支援者は根拠のない感情論ではなく、裁判で明らかになったことに基いて彼の潔白を信じている旨の渾身のツイート。」
http://togetter.com/li/426528


21)毎回公判の傍聴で一緒だったライターの青山さんによる「蒼国来関の土俵復帰を求める裁判―傍聴記録を検証してみた」
http://togetter.com/li/439998